09 Alteration (一年後)

<1>

「待ち合わせなんだが?」

そう言って一人の男が入ってきたのは8時少し前だった。

初めての客だ。50歳、少し手前か?

その身なりと落ち着きから、それなりの地位の人間だと知れる。

男はそれほど広くない店内だが、その暗さに慣れるまでに少し時間がかかった。

そして相手がまだであることを確認にするとスツールに腰を下ろした。

この店では珍しい待ち合わせということばに、マスターはテーブルを奨めた。

「いや、ここで結構です、ありがとう」と男は応えた。

水割りを作り終えると、マスターはガラスケースの向こうに消え、

バド・パウエルの「Blues In The Closet」に針を落とした。

ここはCafe&Bar・ROOTDOWN

メインメニューはJAZZ

 

<2>

男は時計を気にしながら、2杯目の水割りに口をつけた。

そんな気を紛らすように、男はマスターに話しかけた。

「失礼ですが、若い女性がひとりで飲み来るようなことがありますか?」

「・・・・・・」

質問の意味が読み取れないままマスターは応えた

「確かに、男性のお客様が主流ですね、ましてや若い女性の方おひとりとなると・・・・」

なかなか、相手に合わせて言葉を選ぶのも疲れる。

常連との肩の凝らない会話に慣れすぎている自分を感じた。

「そうですか・・・・」

と男は言い、会話はそれ以上続かなかった。

男はスーツの内ポケットから携帯を取り出した。

最近のマナーモードは本人にさえ気がつかせないくらいマナーが良すぎて、

時々携帯を開いて確認しなければならないのだ。

残念ながら、マナーが良すぎたわけではなく、実際に着信はなかったらしい。

そのまま、「ちょっと失礼」と目の前のマスターに断り、携帯を手に店を出た。

すぐに戻ってきた顔は、出たときに比べて一気に疲れが増していた。

おそらく8時の約束なのだろう。30分以上過ぎている。

男と同じくらい、マスターもその相手のことが気になり始めた。

 

<3>

やがて1時間になろうとした時、

「空振りに終わったようだ」と誰にともなくつぶやき、その男は腰を上げた。

マスターは数字を書いた紙片を男の前のカウンターに置き、「ご心配ですね」と声をかけた。

(何らかの事情で連絡も出来ず、来れないのだろう。事故にでもあってなければよいが・・・)

男はそんなことを考えながらガラス扉に向かった。

その時だった。

反対側からガラス扉がいきなり開き、若い娘が飛び込んできた。

長い髪を真ん中で分け、白のシャツブラウスに黒のパンツ姿が細身の長身によく似合っていた。

「ごめん、お父さん!」

いきなり鉢合わせをした父親に、娘はそう言いながら頭を下げ、顔の前で手を合わせた。

「ちょっと時間があまっちゃったから、駅前のパチンコ屋さんに入ったのね。

そしたら千円で、たった千円でだよ、続けて12回も出ちゃって止まらないんだモン」

「電話しようにもあの音じゃあ聞こえないし、お父さんはメールやらないし、ホントにごめん」

わかりやすい事情と言い訳を一気にまくし立てた。

―この男とこの娘のギャップを埋められるものは、この地上にいないだろう、神以外は。

マスターはそう思いながら、しかし美人は得だ。

たった今、年寄りとフリーターの吹き溜まりから戻って来たばかりだというのに、

この娘には全く嫌味がない。

すでに興味を持ち始めている自分に驚いた。

「お前というヤツは・・・・」男はあきれてその後の言葉を呑んだ。

娘はそんな事には全く関せず、思考回路をすばやくチェンジさせた。

「そうなんだ、こういう感じなのか?」

店内をゆっくり見渡し、逆に他の客に自分がさらし者になっていることなど全く気に留めず

「一度入ってみたかったんだけど、どうも女一人というのはね、適当な相手もいないし」

「でもお父さんには似合いすぎる店だね、良かったでしょう、いい店選んであげて」

立ち話の二人に店内のすべての耳は2分されていた。片方でJAZZを、もう片方で彼女に。

常連の一人が席を移動し、2人分のスツールが並んで用意された。

マスターは悲劇と喜劇の堺を目の当たりに見ながら、

「ありがとうございます。どうぞこれからもご贔屓に。

女性おひとりでも充分に楽しんでいただけるよう努力いたします」

そんなマスターの営業トークのせいか、1年ぶりに会ったというその親子はそのまま、閉店までいることになった。

それにしても、娘のJAZZに関する知識は相当なものだった。

父親は一晩で娘の1年分の変化を幕の内弁当以上の豪華さ?で見せられた。

「そうだ忘れてた!チョコをもらったんだ、さっき景品で」

と言ってハイボール3杯も開けてから突然思い出したように言った。

「ハイ、お父さんにプレゼント」

「散々待たされて、心配させられて、チョコひとつか?」

苦笑いしながら、そういう父親に、

「じゃあ私からも」と言ってマスターはガラスケースの向こうに消えた。

やがて聞こえてきたのはヘレン・メリルの「My Funny Valentine」だった。

2月14日はとっくに過ぎ、3月14日は10本の指では足りないくらい遠い、

今にも雪の降りそうな寒い夜だった。