27 EXPLANATION(スナイパーのいいわけ)
<1>
ファーフェルトのソフト帽にトレンチコート、前の季節を引きずりながらその男が現れたのは4月も半ばだった。
男はソフト帽を壁のフックにかけると、トレンチコートは脱がずにスツールに腰を下ろした。
「スコッチをダブルで」
そう言うと、ポケットから2つに折られたむき出しの札束を出し、マスターの見たこともない様々な紙幣の中から、この国で通用する一枚を抜き出しカウンターに置いた。
そういう店ではない、とマスターは言いかけその言葉を飲み込んだ。
あまりにもその一連の行為が手際よく、当たり前のように行われたからだ。
やがて、琥珀色の液体が入った磨きこまれたグラスと、一枚の紙幣が、カウンターの上で黙って取引された。
その液体は3度に分けて、その男の体内に流し込まれた。
その間、わずか数分のことだ。
男は「同じものを」と言って、再び同じ動作が繰り返された。
違っているのは、口にくわえた点けたばかりのタバコの煙が、男の顔を陽炎にしていることくらいだ。
2度目の取引が無事終わった後、男が言った。
「サム・クックか?」
壁にかけたブラスのプレートを見ている。
そこには、マスターが気に入っているサム・クックの歌詞の一部が掘り込まれている。
「ええ、よくご存知ですね」
「ああ、嫌いじゃあない」
男と交わした言葉はそれだけだった。
1時間の1/3、スツールが人肌になる前にその男は出て行った。
鋭い眼光と繊細そうな指。顔に刻まれた皺に隠れてはいたが、右頬に確かに傷があった。
むしろ日本語がそのネイティブさに食われていたような発音。“スカッチ”と聞こえたのは気取りではなかった。
気がつくとそこにはマイルス・デイビスの「死刑台のエレベーター」が流れていた。
自分で針を落としたことさえマスターは忘れていた。
ここはCafé&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ
それから30分後、新政権が発足したばかりの烏丸首相が狙撃されたらしい、2時間ばかり前のことだ、と常連の高橋が興奮した顔で入ってきた。
この夜マスターは久々に夢を見た。
<2>
やわらかな陽射しが降り注ぐ、4月の午後。
私は久々にベランダで、まさに午後の紅茶など飲みながら、一番穏やかな季節を全身に感じていた。
テーブルの上にはいつかのターコイズブルーのトランジスタラジオ。
チャイコフスキーの「弦楽セレナード・ハ長調」が流れている。
やわらかな風の先に何気なく目をやると、普段は人が登ってこない、道路を挟んだ反対側のビルの屋上に人影を見た。
考えることは誰も同じか?
規則を破ってまで、つい屋上に登ってきてしまったのだ。この陽気に誘われて。
ところが彼?はそのまま屋上の周りに張り巡らされた柵にわき目も振らず進み、そのまま一気にそれをよじ登ろうとしている。
柵の高さは約1.5m。
柵を支えるコンクリートの塊の高さが、30cm。
それに登れば、十分に乗り越えられる高さだ。
誰の目にもそれが何を意味するか歴然としている。
距離にして約100m。
私は職業柄、視力は自信がある。
この時なぜ、人の命を助ける?と言ういつもと反対の行動に出たのか自分でも説明がつかない。
所詮、私に与えられた安らぎなど、紅茶一杯分にも満たないのかもしれない。
駆けつける時間はない。
ビルの名前も、もちろん電話も知らない。
私は、私にしか出来ない方法でこれを解決しようと考えた。
ラジオのスイッチを切ると部屋に戻り、スコープを装着し、再びベランダに出た。
今まさに越えようとして、右足を柵にかけ、倒れるような姿勢の彼のその右足に向けて引き金を引いた。
彼はそのままの姿勢で、コンクリートの屋上に崩れ落ちた。
間に合った!
ふくらはぎの皮一枚分の忠告だ。
何が起きたのか、その衝撃で彼は混乱している。
これでしばらく時間が稼げる。後はビルの名前を調べて、電話をかけてやればいい。私の一番嫌いな組織に。
屋上で人が倒れていると。
ところが彼はその衝撃をものともせず起き上がり、再び柵を越えようとしているではないか。
かわいそうだが、もう少しダメージを与えなければならない。
私は、再び右足に向けてその引き金を引いた。
今度は間違いなく、貫通したはずだ。
しかし彼はなおも立ち上がり、またもや柵を越えようとしている。
さすがに動きは鈍くなっているが、“意思”がそれを遂げようとしているのだ。
・・・敵であったら、と考えると私の額に汗が滲んできた。
頼むから、これ以上私に引き金を引かせないでくれと心で念じた。
わずか100mの距離がその願いを拒んだ。
私は最後の引き金を引いた。
屋上にも、ベランダにも10分前の静けさが戻っていた。
冷めてしまった紅茶に、どこから飛んで来たのか、桜の花びらが一枚浮かんでいた。
はなびらを運んできた春風は血のにおいがした。
私はただ、人助けをしようとしただけなのにと、その風にいいわけをした。
<3>
朝色に染められたスクリーンが、窓のわずかな隙間から入る風に揺れている。
いつもと同じ覚醒する瞬間、違っているのは額の汗と、微妙な指の感触だけだ。
夢の記憶を振り払うように私は起き上がり、新聞を取るためにドアに向かった。
開いてみるまでもなく、一面に大きく扱われていた。
『烏丸首相、狙撃さる』
幸いかすり傷程度で命に別状はなく、今日も通常通りの業務が行える模様と書かれている。
トレンチコートの男と私の夢が一瞬交差し、そして重なった。
日本で首相の暗殺などありえない。
さらに、あの男がミスなどするはずがない。
最初から射殺するつもりなど無く、これは警告だ!
烏丸直樹はあの田中角栄の再来と言われ、今日本を変えようとしているもっとも革新的な政治家だ。
そのため国内外問わず敵は多い。
日本のチェンジは、またもやあのロッキードの二の舞になるのか?
私は自分のあまりにも突飛な空想におびえ、そのまま立ち尽くした。