38 STRANGE TAXI(聞く麻薬)

<1>

「昨日、女を拾ってさ」

入って来るなり中村は、カウンターに肘を立て、タバコを吹かしながらマスターに向かって話し始めた。

店を開けて1時間ばかり、スツールが3つほど埋まっている。

また、始まったと思いながら、マスターはグラスを磨く手を休めることもなく、まさに片手間で聞いていた。

「いい女だった」

まだ夢覚めやらぬ、そんな感じだ。

「栗色の髪を後ろで束ねて鶏冠みたいなものをくっつけていた。車に乗るなりそれをパラって解いた。自由になった髪が揺れてスローモーションのように肩甲骨辺りまでそれが落ちた。メガネの女があまり好きじゃあないが、実にそれが似合っていて、水商売じゃあないが、キャリアウーマンと言うほど冷たくもお高くもとまってなくて、含み笑いにとにかく妙な色気があった」

中村ははるか遠くを見ながら、夢のような昨日をなぞり始めた。

「十二杜あたりかな?拾ったのは。私を海に連れてって、なんて言うからそのまま熱海までミッドナイトクルージング。別れ際に小遣いまでくれたよ、諭吉を2枚」

どこまでも続きそうな中村の話は、知らない人が聞いたら今から十二杜まで飛んで行きそうだ。

マスターはそろそろ、タオルを投げることにした。

「よかったですね、中村さん。長距離、しかも女の人なんて最近ほとんどいないでしょう」

「あ~あ、これからがいいところだったのに」

明らかにカウンターの客のカン違いを、何処まで引っ張れるか、そんな中村のいたずらが見えた。

夜勤明け、ついさっきまで寝ていたらしい。話は本当らしいが、さっきまでの夢でかなり増幅されているような気がする。

中村は個人タクシーのドライバーだ。

マニアックなカーステレオが積まれていて、ジャズしかかけないらしい。

要するに走るジャズバーだ。

もちろん、酒もつまみもおねぇちゃんでさえ、持ち込みOK

ここはCaféBarROOTDOWN

メインメニューはJAZZ

酒とつまみは売るほどある。おねぇちゃんだけはいつでも持ち込みOKだ。

 

<2>

「何かリクエストは?って聞いたら、チェット・ベーカーと来た。いやいや、最高の舞台に、最高の選曲だったよ、これは。と、言うわけで、マスター、『No Problem』」中村はやっとROOTDOWNに戻って来た。

マスターはカウンターを出て、レコードの棚の上から三段目に狙いをつけ、見事にその一枚を取り出した。

ガラスケースの後ろに廻り、「No Problem」に針を落としながら、邦題「危険な関係のブルース」、女も意味深なリクエストをしたもんだ、とマスターは苦笑いをした。

チェットのスキャットが、やがて甘いトランペットに変わる。

ジャズ界のジェームス・ディーンといわれたチェットの声は、何度聞いても、モノセクシュアルな感じがする、と思いながらカウンターに戻ると、中村が時の人になっていた。

「無賃乗車はほとんどが女だね。よくあるのが紙袋、これを持ち込んで、財布を取って来るからなんてそのまま消えるんだよ。こっちは一応紙袋があるからなんて安心してると、いつまで経っても戻ってこない。もしやと思って紙袋を覗いてみると、空っぽ。良心的?なやつは新聞紙をつめているくらいか」

「ただね、たかがワンメーター、710円で乗り逃げする奴の心理は俺にはわからないねえ」

タクシードライバーの推理日誌はやはりドラマの中だけだ。

二人の客は、ちょっと小休止と言う感じで中村の話を聞いている。

そう、ジャズは真剣に聞くと疲れるのだ。

「タクシーって、景気に左右されるって言うけど、今はやっぱり悪いの?」

客の一人が素朴な質問をした。

「悪い、悪い。まずタクシーチケットがなくなった。ロングがいない。終電以降の客がめっきり減った」

景気動向はタクシーから言われるほど、一種のバロメータにもなっているだけ、中村の話は、その話以上に深刻だ。

「そう言えば、面白いというかゾッとする話があるんだ」

話の深刻さをはぐらかすつもりなのか、それとも一人でやっている余裕なのか、普段一人でいることが多いせいか、中村が話だしたら止まらない。

「俺が会社にいた頃、いやに張り切っているヤツがいて、会社も目を瞑って、言われるがままに連荘でそいつを乗せていたんだ。周りも若いやつは元気だ、くらいにしか思ってなかったんだが、ある日、そいつをたずねて怖いお兄さんが会社に来た」

なんとなくタクシードライバー推理日誌みたいなってきた、とマスターも聞き耳を立てた。

「それで初めて分かったんだが、ヤクを打って車に乗っていたらしいんだ。ヤクを買うために車に乗っていたのか、車に乗るためにヤクを打っていたのか、最後には自分でも分からなくなっちまったらしい。それでも金に困って、客にもヤクを売っていたらしい。走る麻薬タクシーだよ。お上(かみ)とヤクザに追われて、クビって言うかその前に逮捕されちゃったけどね。会社としちゃあ、よくよく事故を起こさなかった、とヒヤヒヤもんよ」

そんなことを自慢げに話す中村に、客の一人が言った。

「そんな話聞いたら、おちおちタクシーにも乗れないね」

「そ、そんなことないよ。俺のタクシーは安全。麻薬撲滅キャンペーンのステッカーだって貼ってあるし」

中村は、時の人の寿命はいつだって突然終わるものだ、と改めて知った。

 

<3>

ジャズの世界でもチャーリー・パーカーやビリー・ホリディを初めとして麻薬やアルコールにおぼれ、破滅的な人生を送った人間は数多い。いま流れているチェットでさえ、ドラッグが原因で喧嘩に巻き込まれ、歯を折るという致命的な痛手を被っている。しかし、そんな麻薬やアルコールに蝕まれた身体や精神が生み出されたジャズが人に感動を与えているのも事実なのだ。

マスターは複雑な思いで、ビリー・ホリディの「Strange Fruit(奇妙な果実)」に針を落とした。

そしてマスターは明るい声で言った。

「麻薬は聞くだけにしましょう」

数秒遅れて誰もがそのウィットにとんだ一言を理解した。