14 FIB in N.Y. (ニューヨークのうそ)
    <1>
    相変わらず暗い店内に大音量でJAZZが流れている。
    その暗さに音が溶け込み、音の輪郭を消している。
    まるで空間全体から音が聞こえてくるようだ。
    ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
    メインメニューはJAZZ
    流れているのはレス・ポールの「How High The Moon」だ。
    私は以前たった一度だけ訪れた12月の寒いN・Yを思い出していた。
    
    <2>
    おそらくチケットは売り切れているだろう。
    しかしこんな機会はめったにない。
    いや、一生無いかも知れない。
    何しろここはN・Yなのだから。
    タブロイド紙でたまたま見つけたライブハウスにレス・ポールの名前があった。
    偶然とはいえ、一度目にしてしまったら矢も盾もたまらず、
    そのままホテルを出てイエローキャブを拾った。
    赤信号でも平気で渡るニューヨークっ子にイラつきながら、
    やっとお目当てのBarに着いた時は3時を廻っていた。
    開いていた?と言うより夜の仕込みやライブの準備をしていたのだ。
    話をすると、当然の如くチケットはSOLDOUTだった。
    「ただ、運がよければ、カウンターで音を聞くことだけはできる。しかも水割り一杯の値段で」と、
    店の人間が洒落たことを教えてくれた。
    確かにそのカウンターにはスツールが5つあるだけだった。
    その店は入ってすぐにカウンターが横に伸びている。その後ろは厨房か?
    そしてカウンターと並んでステージがあった。
    カウンターからステージはほとんど見えない。
    無理をすればミュージシャンの横顔くらい見える、そんな位置だ。
    7時の開演の20分前にもう一度、そのライブハウスに行った。
    入るとカウンターには赤いハイネックの老人がひとり、背中を向けてコーヒーを飲んでいた。
    客席に明かりが点いていて、やっと全体が見えた。
    30人くらいがせいぜいか、思ったより小さい。
    こんなところで毎日、有名なミュージシャンがライブをしているのか?
    日本では考えられない。
    連れと二人、カウンターが空いていることに幸運を感じ、
    座ろうとしてふと、その赤いハイネックの老人を再び見た。
    何とその老人が我々のお目当てのギターの神様―レス・ポールだった。
    連れはそのミュージシャンの熱狂的なファンで、それなりに言葉は話せるはずだが、
    突然の幸運に、脳と言語が一致しなくなってしまったらしい。
    こんなチャンスは2度とない。私はつたない英語で話しかけた。
    突然後ろから声がかかった。
    どこから現れたのか、いやそこに最初からいたのかも知れないが、
    私たちの目に入ってなかっただけなのかもしれない。
    「話しかけるな!」と言う意味の言葉を吐いた。
    それを止めたのが実はレス・ポール本人だった。
    まあ、まあと言う感じのジェスチャーでそのマネージャーらしき男を押さえた。
    私はこの時とばかり、「あなたに会いに、わざわざ日本から来たのだ。
    残念ながらチケットは取れなかったが、ここで聞かせてもらいたい」と言った。
    わざわざ来たのはうそだが、ここはN・Y、自由の女神も許してくれるだろう。
    レス・ポールは、そのうそに喜んでくれた。
    さらに私はだめもとで、出来れば写真を撮らせてくれと言うと、
    あまりも簡単に「OK!」とやさしい笑顔で言った。
    またマネージャーらしき男が口を挟んだが、ミュージシャンはまたそれも制した。
    三枚の写真を撮った。
    連れとミュージシャン、私とミュージシャン。
    最後の一枚は、嫌がるマネージャーにミュージシャンは私たち3人のシャッターを切らせた。
    最後に握手をしてくれたが、80歳を過ぎたギタリストのその大きなしわだらけの手は、
    10フレットくらい簡単に押さえられそうだった。
    間もなくライブが始まった。
    もともと軽快なギターは、ライブで聴くといっそうドライブ感がまして、
    重苦しい冬のN・Yが、ドア一枚隔てた外に、今夜もあることを忘れさせてくれた。
    グラミー賞を5回も受賞した世界的なミュージシャン、ギターの神様は自らギターも製作。
    ギブソン社の「レスポール」がそれだ。
    そして、ギターの神様である前に、人間として温かさがうれしかった。
    こんな人だから神様になれたんだ。人間を卒業すると神様になる、
    そんなことを信じたい気分になっていた。
    
    ◇
    いつの間にか「How High The Moon」は終わっていた。
    レス・ポールは90歳を超えた今でも現役だという。
    しかし、彼は永遠に滅びることはない。
    ここにくればいつでも、その軽快なギターを会うことが出来る。
    レコードの中の彼はいつでも現役だ。
    ROOTDOWNにはそんな先輩たちが、ガラスケースの後ろでいつでも出番を待っている。
 Root Down
    
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