15 Truth (真実の行方)
    <1>
    店に着いたのは10時半をまわっていた。
    東京湾の花火を屋形船から充分に堪能し、揚げたてのてんぷらについ箸が進み、
    多少もたれ胃と、さらりとした飲み口の日本酒にほどほどに酔い、最後の口直しにこの店を選んだ。
    人気のない通りにひっそりとガラス扉から漏れた灯りだけが見える。
    相変わらず、そこを目指し、そこまで行かなければ分からない店だ。
    休日と言うこともあり、ガラス扉を開けると人影はなく、
    いつもの大音量のスピーカーだけが私を迎えた。
    それにしてもこの音は外では全く聞こえなかった。
    このガラス扉にそれほどの防音効果があるとは思えない。
    やはりここは異空間か?
    ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
    メインメニューはJAZZ
    
    <2>
    マスターはおそらくガラスケースの向こうで次のレコードでも選んでいるに違いない。
    声をかけようかどうか一瞬迷い、立ったまま音に身を任せていたところにマスターが顔を出した。
    「あっ!」と驚きをそのまま口に出し、
    マスターは、今日はもう店を閉めようかと思っていました、と付け加えた。
    ハイボールを頼み、ピスタチオをひとつ口に入れ、ふと思った。
    てんぷらや刺身を肴に日本酒を飲み、花火よりも浴衣姿のうなじに見とれ、
    江戸中の船が今日はここに集まっているという船頭の言葉にうなずき、
    東京と言うより江戸を楽しんでいたのはほんの数十分前だ。
    私の心の切り替えが早いのか、それともこの空間やそこに流れる音の力か。
    すでに、すっかりそこに溶け込んでJAZZに身を浸している自分いた。
    そして、相変わらずの大音量にも関わらず、マスターとの会話が成立する。
    人間の脳が大音量をノイズではないと判断し、
    右脳で音を、左脳で会話を成立させているかかのようだ。
    
    <3>
    閉店間際にガラス扉が開き、外の明るさと店の暗さが、入って来た客を一瞬シルエットにした。
    扉が閉まると、そこには浴衣姿の女が立っていた。
    「まだ、いいですか?」
    初めて見る浴衣姿にマスターの言葉が一瞬遅れた。
    「どうぞ、どうぞ」
    女は数少ない"女の常連"だった。
    「ハイボール、お願いします」
    ハイボールばかりがなぜか売れる夏だ。
    「冷房、消しましょうか?」
    マスターが何気なく聞いた。
    「いや」と「いいえ」がほぼ同時だった。
    我々は、たった今、ガラス扉の向こうのアフリカからやってきたばかりだ。
    エスキモーになっているのは自分だけだと、気づいていない人間の親切だ。
    涼しげに見える浴衣は、思ったより暑いのだと女は言った。
    
    「でも浴衣を着ると女に見えるかしら?
    私はずっとニューハーフと言われ続けているから。身長も167あるし」
    「私ニューハーフに見えます?」
    そう言って語尾を上げながら4つ離れたスツールの私を見た。
    こういう甘えが私は嫌いだ。
    「いや、そんなことありませんよ」と言う返事を強要しているからだ。
    しかし、残念ながら女は充分に女だった。充分すぎるかも知れない。
    「いや、そんな風には見えませんよ」私は素直に言った。
    女は気を良くしたのか、さらに続けた。
    「2丁目を歩くとね」
    もちろん、世界のオカマ街、新宿2丁目のことだ。
    「客引きが私に、『いくら出せばウチに来てくれますか』って聞くのよ。馬鹿にしてるでしょう!」
    客引きがいきなりスカウトに変わる瞬間だ。
    もう何度も笑いを取っているネタらしく、別に怒っているわけではない。
    マスターは笑い、私も笑いながら
    「いや、そこまで言われるのは女にとって名誉だと思ったほうがいい。
    実際2丁目のオカマは、下手な女よりきれいだから」と言った。
    女はムスッせずに、クスッと笑った。
    むかし通った店のホステス?の顔が何人か浮かんだ。
    あの頃はオカマだったが、今はニューハーフと言う。
    確かに、ニューハーフはオカマの進化系だが、"隙"のあるオカマのほうが私は好きだ。
    そして女の言う通り、身長だけは私よりみんな高かった。
    
    「このベースのマッズ・ヴィンディングって、タイトルと同じデンマーク人なんですってね。」と、突然言った。
    バックにはデューク・ジョーダンの「FLIGHT TO DENMARK]が流れていた。
    ヴィンディングはさほど有名なベーシストではない。
    さすが常連、そう言えばついさっき、ベースを弾いてみたいと言っただけのことはある。
    もともと軽く口直しのつもりが、思わぬ展開につい時間を忘れた。
    そう言えば、ここROOTDOWNで女と会話をしたことが初めてで、そのせいだと初めて気づいた。
    女は「そろそろ帰ります」と言ってスツールを降りた。
    私もその言葉に時計と見ると、閉店時間はとっくに過ぎていて、3杯目のオーダーをやめた。
    女は勘定を済ませ、ごちそうさまと言いながら、マスターにウインクをした。
    マスターは苦笑いで返した。
    ガラス扉を開け出てゆく女の横顔を街灯が一瞬照らした。
    店の暗さと、スツール4つ分の距離でそれまで気がつかなかったが、
    その横顔はじつに精悍な顔立ちだった。
    
    ◇
    ガラス扉が閉まり、私はマスターを見た。
    さっきのウインクの意味と、まさか!と言う私の問いは
    その表情に出ていたはずだ。
    マスターは黙ってうなずいた。
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