17 Ash Tray (それぞれの明日)
    <1>
    入って来たのは制服を着た警察官だった。
    近くで喧嘩があり、一人が刺され、犯人はそのまま逃走したと言う。
    この付近にまだ、潜伏している可能性もあるので充分に注意をして欲しいと言った。
    そして犯人の特徴を簡単に説明して、見かけたら近くの交番に連絡して欲しいと付け加えた。
    しかし人間には出来る注意と出来ない注意がある。
    カギをきちんとかけるとか、火の始末はしっかりするとか、大事なものは体から放さないとか、
    この程度は確かに注意できるが、ナイフを持った人間にどうやって注意すればいいのか?
    警察官は大事なことを教えないで、恐怖だけを残して出て行った。
    
    <2>
    しばらくして、汗をびっしりとかいた、派手な刺繍のシャツを来た若者が2人入ってきた。
    その乱暴なガラス扉の開け方に全員が振り向いた。
    そして、全員が凍りついた。
    あの警察官が文学部で、優れた描写力を持っていたとすれば、
    そこに立って全員の注目を浴びているその若者のどちらかは犯人?だ。
    しかし、悲しいかな、個性はアメ横にいくらでもぶら下がっていて、
    それ風にするのに、自分の知恵も努力もいらないのだ。
    この辺りで10個も石を投げれば、この手の若者2、3人には当る。
    今頃、交番の電話は鳴りっぱなしになっているはずだ。
    ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
    メインメニューはJAZZ
    ジョージ・ベンソンの[Breezin」が流れている・
    
    <3>
    場違いな店に迷い込んだ二人は自分たちが想像以上の歓迎?受けていることに戸惑った。
    先輩が大人風(かぜ)を吹かせて、「やっぱ、男はジャズだ」
    なんて言って、ガキ扱いされたのは数週間前だ。
    それまでロックが命だった彼らは、馬鹿にされた悔しさと好奇心で、適当に入った店がここだ。
    店に入って驚いたのはまず、その音の大きさだ。
    要するに、がんがん鳴っている。
    しかしロックと違って、ギターやドラム、ベースがしっかり自己主張している。
    ロックと違って"つるんで"ない。
    彼らにもその程度の知識はあった。
    二人はしばらくの間、ゾンビみたいに立ちすくんでいた。
    カルチャーショックの二人に、ゼネレーションギャップの常連
    この手の若者に免疫のないここROOTDOWNの常連にとってはこの手の若者は全部、犯人だ。
    しかし、人を刺した犯人がその足でジャズバーには絶対に来ない。
    間もなく入って来た客が、犯人らしき男は怖くなって自首したらしいと、つまらなそうに言った。
    被害地で土砂に埋もれた、たった一台の泥だらけのトランジスターラジオから聞えてくる救援の知らせに、
    車座になって耳をそばだてる、被災者の心境を全員が思い知った。
    我々は助かった!
    ここにいるのは犯人じゃあない。
    
    <4>
    マスターは呆然としている二人にスツールを勧めた。
    若者二人は充分すぎるほど背伸びをしているのが分かる。
    彼らのスツールには剣山でも置いてあるかのように座りが悪いのだ。
    二人で何とか一人前と言った感じで落ち着きがない。
    一人が「ハイボール」と言った。
    あわてて隣の男も、「じゃあ、俺も同じものを」と言った。
    ―お互いに笑顔がぎこちなくても、別にCMを撮ってるわけじゃあない。
    ―あっちは小雪で俺は男だ。
    なぜか、ハイボールばかりが売れる夏と、女のバーテンに嫉妬しながら、
    マスターは次のレコードに針を落とすためにガラスケースの向こうに消えた。
    
    <5>
    カウンターに戻ったマスターは違和感を覚えた。
    しかしそれが何かは彼らが帰る直前まで気がつかなかった。
    最初の感激もつかの間、若者たちいつもの彼らに戻ってしまった。
    彼らはメトロノームのような、正確なリズムがないとノレないのだ。
    ピアノソロが始まるや、ドラムがミュートをかける、
    そんな対話には彼らはまだついていけないのだ。
    レコード1枚半で彼らは腰を上げた。
    「お勘定お願いします」
    マスターはいつものように、カウンターに紙片を滑らせた。
    数字のほかに、文字が付け加えられている。
    若者はそれを見て、顔色を変えた。
    そこには灰皿1200-と書いてあったからだ。
    「おそらく、お連れ様が」と小さな声で言った。
    お連れ様は、早く犯行現場から立ち去りたいらしくすでに店を出ていた。
    マスターはさらに追い討ちをかけた。
    「よろしければ新しいものとお取替えいたしますが?」
    「お願いします」
    若者はそう言うだけが精一杯だった。
    そして「ちょっと待って下さい」と言ってガラス扉を開き、閉じる前に戻って来た。
    マスターは箱に入った新しい灰皿と引き換え、
    「お連れ様にお伝えください、いいセンスしていると」
    と、言ってさわやかに笑った。
    若者もつられて苦笑いをした。
    そんな小物ひとつにもマスターのこだわりがあった。
    
    ◇
    ある若者は人を刺し、またある若者は灰皿をくすねた。
    誰もが一度は持て余す、若さの仕業だ。
    彼らのこれからに何の興味もないが、
    もし、彼がいたずらではなく、本当に灰皿が欲しかったのなら、
    いつか再びガラス扉を開くような気がした。
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