19 Transit (音が言葉を超える時)
    <1>
    ホアンと言うベトナム人が、現地人(にほんじん)と2人で入って来た時はすでに10時を廻っていた。
    日本にはベトナム料理の店をやっている母親がいるという。
    そこで、出されるがままに食べ、その後ホアンの提案で、たまたまここに入ったのだと言う。
    その話を聞いて、すきっ腹のマスターは
    ぷりぷり海老の生春巻が頭の中を駆け巡り、ついでに頭の中によだれまで垂らした。
    洪水状態の頭で言えることは「ご注文は?」が精一杯だった。
    ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
    メインメニューはJAZZ
    シェフは無口なオーブントースター、Made In JAPAN
    
    <2>
    日本人が世界を目指して飛び立ってから久しいが、やはり彼らとはスケールが違う。
    母国語、英語、そして日本語までマスターしているらしい。
    言葉は記号だ。
    借り物の言葉に感情を移入できない。
    だから通じないのだ。
    いつの間にか当事者より、通訳のほうが信頼されてしまうのは、感情が通じているからだ。
    「リクエストいいですか?」
    遠慮がちにホアンが言った。
    ホアンの言葉はリクエストと、いいですか?が明らかに違っていた。
    残念ながら、いいですか?は記号にしか聞こえなかった。
    日本語はあまり得意ではないらしい。
    マスターは「ベトナム語では何と言うのですか?」
    と、流暢?な日本語で話しかけた。
    しかしミャアミャア言っているだけで音さえ聞き取れなかった。
    ホアンがリクエストしたのはギル・エバンスの「Sketches of Spain」だった。
    ギル・エバンスはカナダ出身のピアニストで、マイルスとのセッションも多く、
    実はこのアルバムもクレジットはマイルスになっている。
    ―いいセンスしている。マスターは一人ほくそ笑んだ。
    マイルス・デイビスこそがアーチストだとマスターは自認している。
    ホアンとその連れはしばらく、ギル・エバンスを聞きながらスコッチと英会話を楽しんでいた。
    
    <3>
    曲が終り、新しいレコードに針を落とし、カウンターに戻ってきたマスターに、
    その連れが面白い話があると話かけて来た。少しでも早く誰かに話したい、そんな感じだった。
    ベトナムの法律では車やバイクは前方だけを注意すればいいらしい。
    後ろや横から来た車と事故を起こしたら、すべて後ろや横の車の前方不注意と言うことになると言う。
    確かに日本では追突されても、後方不注意とされて0-100に絶対にはならない。
    マスターがこの話に特に興味を持ったのは、
    何故ブレーキランプがフロントにも点かないのだろうと車に乗るたび思っていたからだ。
    そうすれば、後方の車がブレーキを踏んでいるかどうか分かるので、
    事故はかなりの確率で回避できるはずだと、硬く信じている。
    ベトナムの法律と自分の提案をセットにして誰かにすぐにでも話したくなった。
    誰でも考えることは同じだ。
    
    <4>
    その後ホアンが冗談をいい、連れが通訳した。
    「ここはいい店だ。そしてこの暗さはベトナムそのものだ」
    と、言って笑ったそうだ。
    貧しいゆえの暗さも、演出した暗さも、暗さに変わりはない。
    ただ、明るく出来るか出来ないかの差が問題なのだ。
    
    ホアンはベトナムから逃れた難民の2世で国籍はカナダと言う。
    ―それでギル・エバンスに敬意を表したわけか?
    マスターはカウンターに並んだ常連たちに、勝手に国旗シールを貼り付けて行った。
    小林さんは色黒で彫りも深いからアラブか?
    軽くウエーブのかかった赤毛の客はロシア
    目の細いのを気にしている吉田さんは絶対中国
    彼はインド、彼女はフランス、などなど。
    
    言葉はわからかなくても、いや中途半端な記号を並べ立てるより、誰かが差し出す、
    お気に入りのこの一枚に誰もが耳を傾けるほうが、はるかにコミュニケーションが取れる。
    音楽に国境はない。
    
    ◇
    ホアンが帰り際に、「ほんとに楽しかった。今度はカナダの友達と一緒に来る」
    と言った言葉がマスターの一日の疲れを癒した。
    と同時に、今度こそ英会話を、と何度目かの3日坊主にまた挑戦しようとしている自分にあきれた。
 Root Down
    
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