20 Summer (夏の余韻)
    <1>
    いつもの殺風景な街並みがさらに磨きがかけられている。
    8月半ば、軒並み下ろされているシャッター。
    それでなくても通り過ぎてしまいそうなこの店はシャッターに完全に留めを刺された。
    シャッターの中の、ガラス扉にだけ、ここである証拠が記されているからだ。
    臨時休業の札だけが風にゆれ、誰か気づいて欲しいと、もがいている。
    ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
    メインメニューはJAZZ
    店の中では勝手に留守番を押し付けられた数千枚のレコードが、
    音も立てずに、暇つぶしのセッションを始めた。
    
    <2>
    その頃マスターは山中湖にある知人の別荘に向かっていた。
    カーステレオからは大滝詠一の「LONG VACATION」が流れている。
    地震で崩落した東名高速はまた復旧していない。
    ニュースでは中央道を迂回するよう促している。
    普通なら中央道だが、迂回の車で渋滞する可能性がある。それより、御殿場までなら東名が使える。
    マスターの判断は正しかった。
    それでも途中で同じようなことを考える車の列に阻まれ、ナビを無視して勘で走った、大正解。
    
    <3>
    別荘に着くとさっそく、別棟をたずねた。
    ここは知人のミュージシャンのもので、別棟にスタジオが作られている。
    合宿と称して時々来ていると言う。
    音がかなり洩れているが、苦情が来ることはないだろう。
    山の中だ。
    彼のピアノに今回はドラムとサックスが加わっていた。
    ジャズの魅力はやはり気の会う仲間とのセッションだ。
    決して音響効果は良くないが、しかし生のライブはまたレコードとは違った臨場感があった。
    ドラムがちょっと張り切りすぎて、特にシンバルが耳障りだったことが残念だった。
    息抜きに別棟を出て、洩れ聞いたドラムでちょうど良かった。
    練習とは言えミニライブ?に参加させてもらいながら、耳障りなシンバルに、
    やはりレコードの安定感をどこかで感じていた。
    そのまま林を抜け、夕暮れの湖畔を歩いた。
    都会の夏を逃げ出しておいて、緑を渡る風に肌寒さを感じ、長袖を持ってこなかったことに後悔し、
    いざその夏が終わろうとすると、惜しむ気持ちになる。
    人間なんて勝手なものだ。
    
    <4>
    その夜、4人は近くのイタリアンレストランで食事をした。
    当然今日の反省も含めてジャズ用語が飛び交っているが、マスターは、テクもさることながら、
    アドリブさえ理論の裏づけの上に成り立っていると、改めてJAZZの奥深さを感じだ。
    「やはりお客さんのリクエストはピアノが多いの?」
    一段落したところで知人のピアニストが聞いた。
    「そうですね、入りやすいですからね」
    「ジャズっておしゃれだとか、かっこいいとか言われている反面、
    難しいとか怖いとかと言うイメージがありますよね」
    「特にペットとかサックスは喧嘩売れられているようだし、泣き付かれているようでもあるし、
    聞いてるほうはノレないと疲れる」
    マスターはいつか客の一人が言った言葉を、そのまま伝えた
    「そういう意味でピアノは入りやすいんでしょうね」
    「確かにピアノは管に比べたら感情の表現が難しいかも知れない。
    口と脳はせいぜい目と鼻の先のちょっと先くらいだけど、
    脳と指の間は何億光年も離れているって感じだからね」
    知人はそんなギャグを言いながら、"されどピアノ"と言いたそうで、付け加えた。
    「だけど、鍵盤の上を踊るとか、鍵盤をなだめるとかそんな感じは充分に伝えられているとおもうよ」
    「それとピアノだけがソロでも通用すると言う点は忘れないで欲しいね。
    ただし、ジョージ・ウィンストンとキースをごちゃ混ぜにだけはしないで欲しいよ、頼むから」
    と、最後はあきらめと、お願いが入り混じった複雑な顔で、誰にともなしに言った。
    マスターはピアノの限界と、ピアノの可能性のどちらも感じ、複雑な気分になった。
    
    <5>
    短い夏は終わった。
    やはり惜しむ気持ちになるのは何故、夏だけなのだろう。
    激しさゆえの余韻は、祭りの後の寂しさにでも似ているからか?
    マスターは柄にもなくグラスを磨く手を止め、ガラス扉の向こうを眺めていた。
    その扉が突然開いたのは店を開けてまだ10分も経っていなかった。
    そう、扉は突然開くことに決まっている。
    真っ黒に日焼けした、夏の残骸が元気に「おはよう」と言って入ってきた。近くのスナックのマスターだ。
    「コーヒー、それとビル・エバンスの『枯葉』」
    ―何でもチェンジの時代か、もう秋モードだ。それにしても切り替えの早い男だ。
    そう言えば彼のリクエストはいつもピアノだ。
    ちょうど一枚分で、「そろそろ店を開けるか?」と言って帰って行った。
    音に飢えた常連たちが戻ってきたのはさらに一時間くらい過ぎてからだった。
    長い休暇が、自分のための時間が、非日常としか考えられない男たちだ。
    彼らの日常の一部にここROOTDOWNがあって欲しいとマスターは願わずにはいられなかった。
    
    ◇
    この辺りの夜は早い。
    10時を過ぎ両隣のシャッターはすでにしまっている。
    まるでそのシャッターを閉め忘れたような店構え。・
    ガラス扉から洩れるわずかな灯り。
    観葉植物とメニュースタンドが居心地悪そうに並んでいる。
    ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
    メインメニューはJAZZ
    メインゲストがまた一人、ガラス扉を開けた。
 Root Down
    
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