12 Journey (可愛い子には旅をさせろ)

<1>
店を明ける前、マスターはいつものようにポストを覗いた。
デリバリーのピザや寿司、マンションのチラシに混じった一枚のはがきを見つけた。
市販の書中見舞いのはがきに、時候の挨拶に後、近々伺いたいと思います、と付け加えられていた。
佐伯修二とだけ書いてあり、住所はなかった。
消印は千葉だった。
はがきを手にしばらく考えてみたが、その名前に心当たりがなかった。
―誰だろう?
しかも、自宅ではなく、ここに送られてきてる。
考えられるのは昔の客が転勤か引越しでもして、
何かの折に東京に出てくるので、懐かしさで顔をだしますとでも言うことか?
―わざわざ予告してくるなんてご丁寧に
と、自分の中で勝手にけりをつけて、はがきのことは忘れた。
風を通し、店に深呼吸をさせると、自分も同じように体の空気を入れ替え、
「さあ、始めるか」と両頬を両手で軽く叩いた。
きれいに磨かれたグラスがカウンターに並ぶ。
わずかな光に充分すぎるほど輝いている。
マスターはグラスの輝きがへたな宝石よりも好きだ。
神棚の両サイドにあるオリジナルのスピーカーからは
アーニーワッツの「CLASSIC MOODS」が流れている。
コルトレーンの影響を受けたというワッツのアルトがしのび鳴いている。
ピアノが静かに寄り添う。
ドラムは黙って見守り、ベースはただうなずいている。
ここはCafe&Bar・ROOTDOWN
メインメニューはJAZZ

<2>
佐伯が来たのはその3日後だった。
閉店間際に、短く刈った白髪頭でポロシャツにコットンパンツと言うラフ格好で現れた。
大きな風呂敷包みをカウンターに置き、つまらないものですがと、言った。
中味は想像通り、落花生だった、1年分はある。
そして「ご迷惑でしょうが閉店後に少しお話しをさせていただければ」と付け加えた。
マスターは好奇心と断る理由を考えた末、うなずいた。
佐伯が注文したのはジンジャエールだった。
その後は目を瞑り黙って音に身を任せていた。
客が帰り、二人だけになった店で佐伯は初めて名刺を出した。
ボランティアで老人ホームを運営していると言う。
自分もJAZZが好きで、ホームの中にも多くのJAZZファンがいて、
是非一度レコード鑑賞会を開こうということになった。
自分もそれなりのオーディオ装置は所有しているが、残念ながらレコードは多くは持っていない。
そんなことを東京の友人と電話で話しているうちにここの話題になったと、
ここにたどり着いた経緯を説明した。
「しばらく聞かせてもらいましたが、
オーディオの差はあるかも知れませんがやはり原盤で聞くJAZZは心を打たれる。
それで大変厚かましいお願いであることは重々承知の上でお頼みするのですが、
レコードを貸していただけませんか?」と言った。
これではがきに名前だけしか書いていない理由が分かった。。
開店以来、店を出たことのないレコードたち。
引きこもりの彼らが海を渡る。
可愛い彼らたちを旅に出せというのか?
マスターはこの突飛な申し入れに悩んだ。
いや、針は最初から拒む方に触れている。
黙ったまま目を瞑っているマスターに、佐伯は自分の所有している機器を事細かに説明し、
それなりの音で再現出来るはずだ。「レコードを決して失望させない」と、
まるでミュージシャンの出演交渉に会場の音響効果やPAの説明までしているような扱いだ。
レコードを、そこから滲み出る音を、ここまで愛している人間がいるのだ。
マスターの心は揺れ始めた。
寝ることと、食べること以外に特別の楽しみのない老人の日常に、
是非思い出の一日を作ってあげて欲しいとなおも佐伯は説得し続けた。
マスターはすでにこの世を去った父親のことが不意に頭をよぎった。
こんな人間になら任せてもいいかも知れない。
海を渡るか?レコードたちよ。

<3>
数ヵ月後、開店間際のROOTDOWNに一台のマイクロバスが止まった。
最初に降りてきたのは佐伯だった。
その後に杖を片手に、あるいは車椅子で老人たちが続々と降りてきた。
「その折は本当にありがとうございました」
佐伯は深々と頭を下げた。
「あの鑑賞会の後、この人たちがますますJAZZにとりつかれてしまって、
ぜひ本場?に連れて行けと言ってうるさいんです。それで今日は大勢で押しかけました。
ご迷惑でしょうがよろしくお願いします」


常連たちが集合し始めるのと入れ替わりに彼らは帰って行った。
マスターはその後、ウィスキーをつくり、レコードに針を落とし、
そして、あの集団はいったい何だという質問攻めに、
クーラーの温度を下げたくらいでは効果がないくらいの気持ちいい汗をかいてた。