22 FLYING MOON(風)

<1>

扉を全開し、風を入れ、店に思いっきり深呼吸をさせた。

昨日の余韻が風に乗り、裏口へと消えた。

もう一度吹いた風が、新しいページをめくった。

9月3日、晴れ。気温は30度を越えた。

8月の終りに気温が一度下り、夏を惜しんだあわて者たちのためにもう一度夏が帰ってきたらしい。

これを2ndSUMMERと言う。

店の朝は遅い。

夕陽が街並み赤く染め、フライング気味の月とのバトンタッチがぎこちなく終わる頃、店は開く。

ここはCaféBarROOTDOWN

メインメニューはJAZZ

 

<2>

「月が出てるね」

と、言いながら常連の坂本がガラス扉を開けた。

CLOSEの札が掛かっていたはずだ。

マスターは掃除の手を止め、商社マンとして世界を飛び回っている坂本に最高の皮肉を込めて言った。

「坂本さん、英語苦手だったっけ?」

「いや。でも最近中東では英語に混乱が起きていて、時々紛争が起こるんだ。特にOPENCLOSEが原因で」

なんて冗談が通じるわけがない。

マスターが聞こえないふりをしていると、

「ごめん、マスター。ビール一杯だけ」と言って両手を合わせた。

この強引さが、彼の一日の終りに美味しいビールを飲ませているのだろう。

坂本は月を見るとつい反応してしまう、ビールを欲しがる狼か?

罪作りな月だ。

月は日中も浮かんでいて、見えにくいだけなのに。

マスターはビールと磨いたばかりのグラスを、黙ってカウンターに置いた。

坂本はグラスに注いだ一杯目を一気に飲み干し、深呼吸でもするように息を吐いた。

そして「あー、生き返った」と大きな声で言った。

人間も建物も空気を入れ替えてやると生き返るんだ、とマスターは改めて思った。

以前客の一人が、「空気が動くと風になる」と、言った。

マスターはその時初めて、風と空気が同じものだったと気づいた。           

 

<3>

ビール一杯のはずの坂本が椅子に根を下ろしてすでに2時間近くが経ち、ハイボールも3杯目に突入している。

チェーンスモーカーの荒木が、2回も取り替えた灰皿をまた新しい吸殻で埋め尽くしながら言った。

「まさかこの店が禁煙なんてことにはならないよね」

マスターはすかさず言った。

「大丈夫です。そうなるとしても、東京で タバコが吸える最後のジャズバーのタイトルをもらってからです」

それを聞いて、店内に大きな拍手が起こった。

この拍手に、逆にヘビースモーカーのマスターが元気付けられた。

客の前ではかなり我慢しているのだ。

「いいね、いいね。ジャズと酒とタバコのどれがかけてもこの店は終わるからね」と荒木がおどけていった。

それを聞いた坂本がつないだ。

「ジャズが欠けたらただのバー、酒が欠けたらジャズ喫茶、でも、タバコが欠けても、何にも変わらない」

全員が笑いと同時に、もう一度大きな拍手をした。

よく拍手が起こる日だ。

そういえば昔、高倉建はスクリーンの中でも映画が終わると、その唐獅子の背中に拍手をされたものだ。

こんなことに握手をするくらいなら、曲が終わった後にも拍手くらいしろ!とマスターは心の中で思った。

それは決して彼らに対する不満ではなく、音楽が手軽に安売りされている現状に対する苛立ちだった。

昔はひとつの曲の寿命が長かった。

だから人は覚えることが出来たし、記憶にも残った。

スタンダードは最初からスタンダードではなく、繰り返し流れてスタンダードになったのだ。

「運命」はその旋律もさることながら、繰り返されることで運命以上の曲になった。

しかし、音楽は今や消耗品だ。

野菜や肉と同じように、鮮度が落ちれば捨てられてしまう。

育てようとせずに、次の刺激で塗り替えてしまう。

そしてそれは送り手側も、聴き手さえも、そう慣らされてしまっているのだ。

いつか、今の時代を振り返ったとき、スタンダードと呼ばれる曲が、一体いくつ残るのだろう。

マスターは笑い声が相変らず響く店内で、客の盛り上がりとは別に、この店のレコードは一枚たりとも消耗品で終わらせない、生涯現役でがんばってもらうと、改めて心に誓った。

タバコの煙が照明を落とした微妙な光に反射しながら立ち上り、エアコンの風がその煙を捕らえ、まるで生き物のように躍らせている。

ニールス・ペデルセンの「FRIENDS FOREVER」が流れている。

よく見ると、そのベースに煙が反応したように揺れて見えた。

空気が動いて風になる。

空気が動いて音になる。

相変らず流れている大音量のJAZZは、この店全体の空気を揺るがし音になって満たしている。

            

<4>

 今日も閉店時間を守らない客の集いになってしまった。

それでもうれしい疲れを残しながら店を出ると、風が頬をよぎった。

明らかに店の中を廻っていたエアコンの風とは違う。

風は一度しか吹かないから風なのだ。

エアコンと自然の風の違いは、

空気見たいになった女房と、心地よさだけを残してどこかに去ってしまった愛人くらいの違いがありそうだ・・・・。

見上げるとフライングした月は、失格もせずに一番大きく夜空で輝いていた。