35 NIGHT LIGHTS(旅立ち)

<1>

杉山が現れたのは10時を少し廻ってからだった。

70歳になる母親と2人暮らしで、40歳半ばを過ぎた今でも、まだ独身だ。

父親がこの世を去ったのは、杉山が40歳になる寸前だった。

その時すでに母親は脳梗塞が原因で寝たきりになっていた。

それまで父親が面倒を見ていたが、それから杉山は会社のほかに母親の面倒を見ることになった。

ヘルパーに頼めるのは昼間だけだ。

夜は杉山がその面倒を見なければならない。

だから残業のない部署に配置換えをしてもらった。

ただ、会社も時代の波はよけきれず、どこの部署も残業は少なくなっていた。

そんな杉山の唯一の楽しみが、ここでの一枚と一杯だ。

寝酒代わりに、歩いて5分のこの店に来る。

レコード一枚あるいは二枚分の時間を、ゆっくりとストレートウィスキーとチェーサーで過ごす。

それ以上の時間は母親を一人にして置けない。

当然、食事を作り、食べさせ、母親が眠った後に出てくる。

ここはCaféBarROOTDOWN

メインメニューはJAZZ

様々な人に様々な今日があり、そんな今日の終わりのひとつがここにある。

 

<2>

杉山にもいくつかの出会いがあった。

しかしそれらは引っ込み思案の杉山にとって、似たもの通しが惹かれあい、そしてもう一歩がどちらからも踏み出せないまま、通りすがりの立ち話のような形で終わっていった。

杉山が、そんな繰り返しに耐えられたのは、親子3人の生活がいつまでも続き、それも壊したくないとどこかで思っていたからだ。

それがあっけなく壊れて、杉山に先が見えない日々が続くことになった。

そんな杉山の唯一の趣味がジャズだった。

40年も前の、自分が生まれた頃の音を聞いていると、生まれた頃と何の変化もない自分の人生そのものを聞いているような気がして、あきらめと慰めの入り混じった安らぎを感じるのだ。

 

「杉山さん?じゃあないですか」

(誰かが自分を呼んだような気がする?でも、この店で影のような自分に知り合いはいない)

しかし、もう一度名前を呼ばれた。(確かに自分の名前を呼んでいる)

声のほうを振り向くと、3つ先のカウンターに人懐っこい顔をした男がこちらを見ており、目が合うと軽く頭を下げた。

杉山もつられて頭は下げたが誰だか思い出せない。

それにしてもこんなところで知り合い?に会うなんて。

ジャージの上下にサンダル、ジャンパーを引っ掛けた自分の姿をいきなり思い出した。

何も答えず、呆然としている杉山を見て、もう一度相手は言った。

「杉山さんですよね?」

「えっ、ええ」と、つっかえながらも杉山は応えた。

「いやあ、偶然ですね、こんなところで会うなんて。一度お会いしただけですから無理もありませんね。小川です」

相手は杉山の記憶を呼び起こそうと名前を告げた。

(小川・・・・? そうか、数年前、無理やりさせられた見合い相手の父親だ)

婚期を逃した娘のために、こまごまと母親以上に甲斐甲斐しく動き回っていたのを思い出す。

結婚は相手の母親を見て決めろ、それが彼女の将来だ、と誰かが言った。それを聞いた誰かが、いや親父を見ろ。それが自分の将来だと言った。

見合いの時、杉山は相手の父親を見ていた。

これが自分の将来か?目の前の女の将来よりもそっちが気になった。

その頃はまだ、親子3人の生活がいつまでも続くと考えていた頃で、返事をあいまいにしているうちにいつしか話が断ち切れになった。

今でもその父親はそのままだ。

「こんなところでなんですが・・・・」

と、いかにも場違いな話をしようとしている小川にとなりの男が気づき、立った。席を替わろうとしている。

それに気づいた小川が、

「すいません、ありがとうございます」と言うと、なんとなく暗黙の了解が瞬時に広がり、ひとりずつずれ始めた。

さっそく隣に座った小川が声を潜めるように言った。

「こんなところで、何ですが、前回のお話、もう一度考え直してもらうわけにはいきませんか?」

「えっ!」

杉山は、あまりの突然の申し出が、前回の見合いの話しの続きであることを理解するのに数秒かかった。

「娘はまだ一人でおります。杉山さんのことは今でも時々話題に出るものですから」

(たった一度、それも数時間しか会っていない人間に、そんなも長く執着できるものだろうか?)

一目ぼれされるほど、杉山は自分を買いかぶってはいない。

いずれにせよ、近く人を立ててもう一度伺うつもりだったと小川は付け加えた。

もしかしたらここであったのも偶然ではないのかも知れない、と杉山は思い始めていた。

(私がまだ、ひとりであることを前提に話している。と、言うことはそのことを知っている?と言うことだ)

小川はなんとなく不気味さを感じながらも、母親の看病や自分の将来のことを考え始めていた。

売れ残りを押し付けられる、と一瞬考えたが、すでに売れ残ってだいぶ時がたった自分には似合いかもしれない。

しかもよく分からないが、望まれている様子だ。

 

<3>

マスターはそんなふたりの切れ切れに聞こえてくる言葉を、聞くとはなしにつなげていった。それは小川にとって決して悪い話でないような気がした。

ガラスケースの向こうに廻り杉山の好きなジェリー・マリガンの「Night Lights」に針を落とした。杉山が生まれて間もない頃の曲だ。

杉山はすぐに反応し、マスターを見た。

マスターは黙ってうなずいた。

しばらく聞いていた小川が「ジャズのことはよく分かりませんが、なんとなく心が洗われるような気がしますね、このレコードは」と神棚のもっと遠くを見るような目をしながら言った。

「私の一押しのアルバムです」

杉山は他はどうであれ、その一言はうれしかった。

(もしかしたらこの人と自分は似ているのかも知れない。もし、そういうことになっても、変わる必要がないくらい自分はこの人なのかも知れない)まるで写し絵でも見るようにまじまじと小川を見た。

「今日はこの辺で帰ります。またお会いできますね、ここに来れば?」と念を押すような言い方をした。

「そうそう、最近娘がジャズを聞くようになりました、と言ってくれ、と」と小川は付け加えた。

それはすでに確信犯であることを白状していた。

 

<4>

ふたりでジャスを聞くことになったら、もうここへは来ないだろうと、小川を見てマスターは思った。

サンダル履きの杉山が、この店に現れなくなるのは寂しいが、嬉しい旅立ちだと思った。